誰にも遠慮無く、自分の人生を選び自分を作ること。

仕事も生き方も自由な時代なのに、何かしらに“縛られている”状況にあるのが、たぶん僕ら世代なのでは?それも“自ら縛られる”ことを選び、そこに安心を得ようとしている。少なくともそこに頼りたいと思う自分がある。

今の20代前後は、それなりの生き方の攻略法を駆使している。それもその世代としての生き抜く知恵として、自分の嫌なことは初めから極力関わらない様にしている。
彼らは責任感が強く“真っ当”な存在で、無茶苦茶な問題に対しても正面から向き合うことを選ぶ。“馬鹿なこと”とハナから相手にしない事は無い。

最近聞く「ブラックバイト」も、僕らが20代の頃なら「そんなの行かなければ良い」となるだけ。“従わない”という選択をするだけ。
でも、今の彼らは面倒な物事に近づかない様に、時給よりも環境を慎重に選ぶ。そして、もし誤ってブラックに当たってしまったとしても、正当に辞める手続きの上でそこを離れる。
そうやって自分たちを守る防衛方法は、あまりにも理詰め過ぎる様にも見えるけれど、それは彼らの生き方であり、曖昧な部分を残さない防御方法でもある。

 

社会に出たら思っていた社会と異なっていた

そう、本題。

40を手前にした自分は、子供時代に「社会人=会社に雇われる」という考えが大きかったと思う。夢を語る中で「社長になる!」なんて友達もいたけれど、それは「総理大臣になる!」という言葉と同等だった。「社長=お金持ち」程度のこと。本当にビジネスを起こそうと考える子供は、周りにどれだけ居たのだろうか。

社会に出るとITだなんだと騒ぎ立てていた。一気にパソコンが普及し、インターネットが一般化されていた。急速な社会のIT化は、ひとつの技術やセンスだけを短期に求め、様々な企業を横断する個人の需要も高まった。フリーランスという生き方がメジャー化したのは、この頃なのでは?と思う。

そこから法人化していく選択もあれば、個人のままに続けていく選択肢もある。

 

暗く見えた時代の中でのサバイバル

その頃から「終身雇用」という言葉に疑問符が明確になり始め、大企業の倒産などもニュースで騒ぐ。なんとなく暗い雰囲気はあったけれど、実際にはどうだったのだろう?

そんな世の中の変化に柔軟に対応できるか?が、僕ら世代に突きつけられている課題の様にも思ったけれど、上手く振る舞っている様に見えて、実際に対応できている人も少なく見えた。

そういった意味では、先の「今の20代」の生き様は、このスタイルに対応できていると言えるのかもしれない。

 

仕事は選ぶモノで、その選択で幸せになるモノ

仕事をするということは、生活に必要なお金を受けることであり、それは生きる上で必要なこと。無理に課せられた罰則でも無ければ、無理やり押し付けられるモノでもない。

お金は必要以上に必要のないはずだけれども、数字を増やすことが楽しくなる人もいる。それは趣味といえば趣味。そこは個人の自由。自らの幸せにこそ、重きを置くべき。

なのに、その得たお金の量を見つめながら、周りを気にしてしまう気持ちは拭えない。

平均年収などの数字は年中メディアに取り上げられる。テレビでもネットでも、人の興味がそこにある様に、覗けば簡単に自分もそこに陥る。なんの価値もない数字に強迫観念を植えつけられる。

でも、こうした不安定な基準の中に身を置くことで防御している。その基準さえ守っていれば安全という神話の中に安全地帯を見ている。道を一生懸命踏み外さ無い様に一歩一歩慎重になって、少しでも道を外れる輩に対しては揚げ足を取り否定することで、日々、不安定な安心を確認している。

 

好きなことをして生きる。それが人生の大前提のはず。

本来ある「自由」という大前提の中で、あるはずの無い一本道を慎重に渡っていく。誰に評価される訳でも無い。渡りきった人生の終わりに、誰も評価してくれない事はどこかで気付きつつも。この生き様は辛い。

僕自身もこれらに関しては完全に否定出来ない。このスパイラルから抜け出せなくなる時もある。すでに大きく道を外れているにも関わらず。人は弱い。

安心も安定も他者を頼る限り、そこには無い。それは知ってるつもり。安心なんて、自分の経験で得た自信だけでしか得られないことも知っている。

 

自由という課題に自分がどう答えるのか?

好きなことをして生きる。この「自由」という選択が実は一番難しい。

大学の授業で「自由」と言われたら、全く手が進まずに困った経験がある。お題のある課題は楽なものなのだと、この時に気付いた。乗り越えるべき困難を示してもらうことに慣れると、自ら課題すら見つけられなくなる。それは疑問を見失うことなのかもしれない。

でも、この「自由」という課題は社会に出ると常に突きつけられているはずなのに、なかなか胸を張った答えが出せていない。誰に対してか分からない遠慮があったり、躊躇したりと。どちらも全く必要ないのに。

何をしても良い。このテーマにどう答えるか。

誰も守ってはくれない。助けてもくれないのに、誰に遠慮するというのか。無条件に愛してくれる親でさえ、自然の摂理では自分より先に居なくなる確率が高い。

本来、誰にでもこの投げかけは出されているはず。

今の自分自身は自分が選択した結果であり、「自由」という問いに対する自らの答えであり、生き様だ。

文句を言おうが、こういう事なんだよね。それが「自分」を作る。

極論で選択をすると実は選択者本人が苦しくなり、そしてその周りもついていけなくなる。

たまたま「極論はツラくなるよね。」という話題があって…。
この時の話題になった対象だけでなく、最近いろいろなところで出てくる話題だなと、そんなことを思った。

この時の話題は「食事」の話だったのだけど、「あれが悪い、これが悪い」で完全に排除していってしまうと、食べれる物が限られてくる。だけでなく、食べたい時に食べる機会を逃したり。食事が苦痛になったり。

それたぶん理想としてる何かと、現在自分が於かれている環境とのギャップが激しすぎたり、矛盾があったりするんだよね。

自分の生活の環境の中で、いろいろな物と付き合いながら、偏ることなく無理の無い付き合い方が出来た方が食事自体を楽しめるよ。

生活していく場所の選択も同じだったりする。

住まいもそう。田舎暮らしを選択したところで、たまには都市部に通うことがあって良いし、趣味や興味が散らばっていても両面を知る人にとっては自然な話。
「田舎に行ったのだからそこで満足出来ないのはおかしい」みたいなのも極端すぎる話で、先の食事に例えるなら「そこの生活を楽しめなくなる」だけだろう。

頑なに頑固にそう自らを押しつける人も見るけれど、選択肢や可能性を狭めているだけで、ちょっと勿体無いと思うこともあった。

何かしらの選択をしたところで、全てがそこに巻き込まれる必要はない。

「それじゃ中途半端だ」って声もあるみたいだけれど、いやいやそれこそが人間じゃないのかな?
いろいろな物事に興味を持てる人こそ、広い視野ながらの正しい選択ができる時もあると思うよ。

偏った視野で判断する危険性に危機感を持っても良い。

都心部の文化や流行、情報の速さや、エキサイティングなエンターテイメントも好き。その上で、田舎にある静けさや澄んだ空気、青い海が好き。
そんな答えも、自然な一人の思考でありえると思う。それを選択し、実現するひとも居る。

東京で育った僕は北海道の自然に2ヶ月で飽きた。

あの土地で人との出会いがなかったら、しばらく北海道に残れなかったと思う。
ウェブや雑誌を賑わす最新情報は、すべて海外か東京の話。やっぱり東京の事に興味が向く。
東京に来れば「北海道はいいよね。美味しいもの多くて。」って話も全面的に「だよね!」と同意はするけど、やっぱり僕にとっては両者のバランスがあることが前提だったかもね。

八王子で育ったってこともあるのかも。都心部に行くのも近く、自然に出会うのも近い。なんとなく生活圏に両者があった。

でもやっぱり、誰もが「ぱっと思い浮かぶこと」というイメージは、薄っぺらいんだよね。だからそれだけを追いかけると大した深みは無い。
「北海道=大自然」みたいなのはそんなに面白くなくて、知らなかった文化に出会った時の方がワクワクした。人の興味ってそんなもん。

変化に対しても極論は避けた方がいい。

人が「今日からこんな人間になります!」と言ったところで、実は何も変わらないのと同じで、極端な変更は本人も含めて誰もがついていけない。デジタルに白黒変わるモノじゃない。人もモノに対するイメージも。

『街を変える』みたいなことも、あまりにも極端な考え方は危険だよね。今までのモノもあって、新しいモノも取り入れる。そのバランスがとれてこそ、新しいカタチなんじゃないかなって思うよ。

時代が求めるニーズに都市も地方も関係は無い。選択肢が増えたことで加速している。

地方の店作り。例えば海外を含めた都市部から移住した人の店がピックアップされやすかったり、人気が出たり。もともとあったお店とは異なる扱われ方がある。

これ、ポイントは店作りに大切な雰囲気づくり。『センス』なのだと思う。これはけしてお金をかければ良いって話では無く。たぶん予算を使う上での「優先順位」と、問題解決としての「アイディア」の問題。

競合が多く鍛えられる場で育った人は、どんな場所でも強い。

都市部からの移住者(出店者)は、そこが鍛えられていると思う。どんなことでも鍛えられた人間は強い。競合が多い場は常に戦い。手持ちのお金が限られるだけに、常にアイディアが必要となる。そんな場。

多くの新店舗が進出する背景に、消えて撤退する店が同じ数だけある。

そんな場に居た人間が、競合が少ない場へ出店することは自然な流れのひとつでもあり、そのエリアに惚れた人間であれば、更に本気で立ち向かう。生半可な店舗が太刀打ちできる訳がない。ピックアップされやすいのも自然な流れ。

そう、大切なのはセンス(頭脳)なのだと。

良き時間の重ね方で時代を経た場は強さがある。

地方に出向いた時に、興味を沸かせるお店は雰囲気が良い。オーラがある。外から見た箱のあり方と、その周りの環境との関係性。

老舗として、そこで積み重ねてきた時間が店の雰囲気まで育てる店作りがある。扉を開けて中に入りたい。その前に、そもそも目を引くことも大切。それを持つ店舗は時間と共に進化・成長がある店と思う。

一方、それに立ち向かうべく新しく進出するには、見た目にエイジングを施したところで本物には敵わない。新しい店を作るなら、店構えが大切。

求めるニーズに対応できるのか。競合が業界を育てる。

例えば、「若い世代は都市部の雰囲気が好きなだけ」なんて言われるけれど、それはやはり「その時代で求められる場」がそこにあるわけで、住む場所は関係無く、消費者は自分が求める場所へ向かうだけのこと。

複数の通販などの選択肢が増えた中、わざわざ自分が心地よくなれない場で消費をする必要は無くなった。

そんな状況でも「時代が求める場が集まる場所」それが都市部であって、地方は圧倒的にニーズに間に合っていない。そもそもそこまで投資する必要が無いというのが現実だろう。

どちらかといえば、都市部で出店したとしても、そのエリアだけなく地方から客を呼び込むことが出来るか否か?その宣伝力と発信力、ブランディングに対する切磋琢磨は凄まじいものがある。

競合としてのライバルが居なければ、新たに投資する必要は無く、メニューづくりや品揃えさえ時代に追いつけば良い。そう、先に書いた「都市部の日々の戦い」とは正反対だ。

そのデザインや商品が生まれた背景を見出す力。

ただ、そのニーズの上辺だけを拾ってしまうと、2〜3年後にある「時代遅れ感」は半端ない。たまに中途半端な年代の流行をコピーしたまま、紫外線に焼けた看板を駅前の一等地に見つけると残念に思う。(それはそれで面白いと思う反面、一般的では無いと思ってる)

進出時にニーズを追いつつも、時間を重ねることで成長する店作り。つまり時間を含めたデザインが必要なんだ。これは鍛えられたセンス(頭脳)が必要。

本当に「良いもの」、そして「そこで続けていくこと」。

そこで店を出すということは、そこで時間をかけて店を含めたエリアと共に生きるということだと思う。目の前のお金を追うばかりでは、ここは見逃すことが多い。でも、長続きさせるにはこれが大切。

どんな商売でもイニシャルは抑えたい。走り出したら、小さくともそれなりに回収できるビジネスである必要もある。ただ焦りは良くない。3年は眺めつつ計画を練りたい。

魅力的な店舗と店主。そして街の関係。

自分が作りたい店、提供するサービス、それによって喜ばれる顧客。それらをイメージしながら生み出す場所。それを自分の財布を見つめながら、一切妥協せずに実現できるか?
限られた条件の中で、最善を尽くすこと。あまりにも弱気になって、優先順位を間違っていると感じてしまう場があるのも事実。

ただ、それなりに中途半端な店作りのまま、それが継続することもある。それは競合が居ないからという状況なだけであって、エリアとしては危機感を持つ必要もあると思う。

その街へ「出店したい」と思う店が増える様な環境づくりは、街のブランディングにもつながる。街としての様々なニーズに対応できる幅広い度量と、クオリティを見る力が求められる。

街には複数の顔がある。そのバランスが欠ける事に危機を感じる。

間違えないで欲しいのは、街に「センスの良いものだけを並べよう」ということではない。街は様々なニーズがあって幅広い数の店がある。それらが良い意味で共存できること。それが出来る街が実は少ない。

どちらかに偏るまちづくりが多いこと。これは一時の安易な遊園地でしかない。そんなハリボテに未来は無いのだ。