過去の夢との対話

4年目の大学生活を迎えた時、
他の研究室では、就職先を決定した友人がポチポチ出ていた。
内定というやつですね。それでも遅い頃なのだろうか?

就職という言葉が、当時の私には、
あまりにも現実的に聞こえては来なかった。
惰性で1社面接をして、その非現実感が強くなった。

そこで考えた。
なぜ、今私はここに居るのか?と。

高校時代、子どもの頃から車好きだった私は、
エンジンなどの開発に携わる仕事をしたいと思っていた。

訳も分からず、レース関係のファクトリーへ
バイトを無理矢理申し込んだりもした。
そして、単純な自動車の知識も足りない事を思い知らされた。
でも、そのファクトリーの方々が優しく接してくれたことは、今でも忘れない。
優しくなだめながら、MR2(SW20)で、最寄り駅まで送り迎えしてくれた。
車がより好きになった。

そして、工業系、電気系の大学を目指す。
夢中で勉強するも、英語がまったく伸びず。
理数も教科として好きだったが、
有名塾で開催された模擬試験では最悪の結果だった。

いろいろ悪あがきもするが、全く状況は良くならず。
簡単に心が折れて、諦めることにした。
というのも、通っていた高校は中高一貫校であって、
その生徒のほぼ全員が、附属の明治大学への推薦を貰える様な学校。
目的の学科は難しいが、それでも選ばなければ明大生の看板は背負える。

そんな事もあって、簡単に諦めてしまったのだと思う。
二部ながら文学部か何かの推薦の話があった。

たぶん、そこへ通うのだろうと半分思っていた。
悪い気分では無い。名の知れた大学なのだから。

そこで見たのがカーグラフィックTV。当時は土曜の夜だったかな?
ピニンファリーナの特集。イラストがクレイモデルになって、その後生産ラインに流れてくる車が映ると、最後一台のフェラーリが走り出す。

これだと思った。

それで美大を目指して武蔵美に入った。そして4年生になったということだった。

ならばとピニンファリーナの住所を探る。
カーグラで見たのだからと、カーグラの編集部へ手紙を送った。2週くらいしたころかな?返信があった。ピニンファリーナの住所と共に。

早速作品をまとめてピニンファリーナへ送った。
帰ってきた手紙を見ると、相手してくれたのは奥山清行さんだった。
「残念ながら君を今雇うことは出来ない。でもいずれ必要になったら声をかけよう。その時に分かるように有名になっておけ」と。ざっくりそんな英文。

粋だなって思いつつも、自分の道を探ろうともがき出した。ようやくスイッチが入った感覚。

その手紙をたまに読む。
過去の自分と対話しつつ、過去に恥じぬよう今のもがき方をしたいと思う。

自動車会社にみる企業と社員

大学や高校の同期が異なる自動車メーカーに勤めている。デザイナーであったり、テストドライバーであったり。仕事をする上で出会いもあった。共に好きなクルマの話をする上で、とても大切な友達です。

興味深いことに、それぞれのメーカーによって働く社員のキャラクターが異なる様に感じます。

たとえば、トヨタの関係だと「クルマのことを好きな人は何人いるのだろう」と。(この記事自体が2005年頃なので、最近はモリゾウさんの働きで変わりつつあるとも思うけれど)
企業として大きくなれば、様々な職種が必要となり、物量としても大人数が必要となる。扱っている商品の意味も純粋にクルマだけを売る立場では無くなり、社会的な立場や責任を負わされる。

ただ、そこまで巨大化すると、気を抜くとひとつの国の様に縦割りになってしまう事があるのでは無いだろうか。組織としては縦割りの方が管理しやすいから。そんな役所的な体系が経営者サイドとしては課題になったりもすると思う。あくまで想像だけど。

一部から聞いた話では、トヨタの社員は結婚する年齢が早いとも聞く。これは立場的な部分もある気はする。ただ、社会的信頼感と安定感は公務員並みとも思う。約束はどこにも無いけれども、社会の評価とは時に恐ろしい。

一方でホンダ関係の方から聞くと「自分で乗るならホンダ車以外考えられ無い」という声も。実際ホンダの駐車場にはトヨタの駐車場と比較すると、他社製のクルマは少なく見える。(トヨタの友人はフィアットに乗っていて、車内の駐車場に置いておいたら、ある日ボンネットに足跡が残ってたとか)
実際の数字はわから無いけれども、ホンダの社員の多くはホンダ車が好きと聞きます。ただ、本田宗一郎さんが無くなり、ホンダスピリットは一時の勢いよりは落ち着いてしまっている気もする。(S660とNSXで勢いづいて!)

社員のモチベーションと販売数の差に、その関連は分かりませんが、この違いは会社の将来として何を意味するのか。世界との境界線が無くなって来たからこそ、そろそろ見えてくるモノかもしれない。