今年の春から、大学で1授業を持たせてもらっています。具体的な制作ではなく「コミュニケーション・デザイン」という、ふんわりとしたことをタイトルに授業を進めています。
出来れば様々な大学でこの授業(という名のワークショップだと思っている)を持ちたいと考える様になってきました。単発でも機会があれば時間を作らせてもらいたいです。
『デザインによってコミュニケーションを解決させていく。』授業テーマで、たぶんシンプルな答えはこれだと思う。
ただ、「デザイン」の機能の中に「コミュニケーション」は関連して組み込まれているし、「コミュニケーション」にも様々な関係性としての「デザイン」がある。授業にこのタイトルを持つことで、その思考のループをずっと歩き続けたまま4月を向かえ走りだしてしまいました。
実は受講生にも伝えているのだけど、今回は試行錯誤しながら「コミュニケーション・デザイン」を考える方法を模索して授業の中で実験を続けています。
そう、伝える言葉を見つけるのではなくて、考える方法を探し、その実験をしています。
授業とはいえ、たぶん概論をブツブツ話しても面白くないし実感も無いと思う。あとこうした「デザイン」とか「コミュニケーション」って答えもひとつじゃ無いと思う。
だから色々な体験で例えて、理屈で考えるよりも体感して発見してもらいたいと考えて毎回授業を組み立てています。
言い訳が通じるのか分からないけれど、順序も前後したりするけれど様々なWSスタイルを組んだり。ゲスト講師を呼んだり。大学生との時間がひとつひとつ蓄積されていく中で、全体的な流れが組み立てられているので、この先の授業ではベースとなる基礎が出来上がってきました。
主に大学時代からだけど「デザイン」という言葉に向かい合って色々なことを考えてきました。
思い出に残ってるテーマは『座れない椅子は椅子なのか』というもの。ガストで数時間話したのだけど、このテーマは今でも面白いと思っている。
「座れなくても『椅子』とされているなら、それは『椅子』である。」という意見と、「座れなければ『椅子』としての機能が伴わないから、それは『椅子』ではない。」という意見。が対立する。今でも僕の中で答えは出ていない。そして、この2つの意見は交わる点がない。
世の中色々な考え方があるという例えでもあると思う。コミュニケーションを考える上で、こうした交じり合わない両者の関係を考えるのも大切だと考えている。
制作の指導なら、具体的な作品づくりを進めながらテクニックなどを教えることも出来るけれど、それはそのものでしか無いんだよね。
テクニックを教えるのは明確な「伝える対象」があるから伝える方も、教えられる方も分かりやすい。
なにかを伝える上で、言葉でなく体験してもらうことで、こちらが伝えること以上の発見を見出してくれるかもしれない。言葉を超える可能性を期待する部分もある。
義務教育の先にある教育はそれが大切なんじゃないかなって思う。与えられるだけでなくて、自ら気づいて見つけていく時間。
だけど、言葉にしないと伝わらないこともある。このバランスは難しいって毎回思っています。 これらも大学生との時間を重ねることで分かったこと。物凄いポイントで反響を受けることもあれば、思いがけず理解されないことにも出会う。 まだ「気づいて欲しい」と期待することが多くて、期待しすぎると授業終わりに「?」となってる学生の顔を見ることになる。
先生は色々考えているんだよ。ってことは、先生という立場になって気づいた。
今、人生で一番「デザイン」と「コミュニケーション」について考えていると思う。
具体的な授業内容などは、次にまとめています。